ずっと考えていたことだったのだけれど、津波の被災地を見に行ってきた。
最初は、何も手伝うこともせずに自分で行って見てくるなんて考えもしなかった。
でも、行って自分たちの目で見なくてはならないとの思いが出てきた。
行こうと思えば行ける距離。
近くの駅から新幹線一本で、宮城に続いているのだから。
父ちゃんに相談して、行ってみたいと言ったら、いいよ、と新幹線もレンタカーも手配してくれた。
(レンタカーのことは仕事で使うので手馴れている。)
普通の旅行とは違って、計画はしても、行く前から気が重い旅だったた。
まずは小山駅から新幹線に乗り、仙台へ。
1時間半ちょっとの道中。
新幹線の車内では、放射線量も計測。
結果は那須塩原駅から福島駅のちょっと先までは、車内でも0.2マイクロシーベルト/時を超えていた。
時間にして約50分間、距離にすると110kmくらい。
郡山を少し過ぎたところでは、0.6マイクロを超える値も。
0.6マイクロシーベルト毎時と言う数値は、国が定める放射線管理区域の基準。
とてつもない範囲が高い放射線量を示していて、福島県が広い範囲で汚染されてしまっていることをいやでも実感せざるを得ない。
風景は、何一つ変わらないのに、私の眺めている線量計が示す過酷な事実だ。

福島駅にて。0.346マイクロシーベルト/時。
仙台駅でレンタカーを借りて、北を目指す。
海岸線に出るのが、こわい。
最初に出た海辺の、松島はそれほど被害を受けなかったようで、観光地としての姿を取り戻していた。
まるで何もなかったかのような風景に、ちょっとほっとした。
しかし、石巻まで来ると、瓦礫を積んだトラックが目に入るようになり、壊れた建物が目に入るようになった。
海岸近くの住宅地の、壊れた家々の姿。
やはり、本当に津波は来たのだ、といまさらながらに思う。
そのまま、男鹿半島方面へ。
女川の町のあたりにくると、もう建物はほとんど何もない。
瓦礫も片付けられ、建物があった形跡が残る道を進むと、海が道路近くに迫っている。
海岸が沈降している。
でも、道路が山の上にのぼると、また何も変わらないような眺めになる。
また、道を下って集落があったところにくると、散らばったものと、家の土台のあとなどが、そこに町があったことを示すだけ。
石巻市雄勝町。

瓦礫の山。

雄勝中学校。
手前に家の土台が残る。

この先の道路わきに
「雄勝町へまたどうぞ」という古びた看板が立っていた。
でも、その町は、もう無いのだ。
残った看板だけが、町の存在を、町があったときのままに伝えていることに胸をつかれる。
山に入ると、また普通の風景。
でも、下り始めると、ぐちゃぐちゃになった田畑が見えてくる。
こちら側にも、津波が来たのだ。
そして、その先にあるのが、大川小学校。
多くの子ども達が、逃げ遅れ、犠牲になったところだ。

裏山に逃げる判断をしていれば、と誰もが暗澹たる思いにとらわれるだろう。

献花台に、以前の風景写真が飾ってあった。
学校の周りに住宅街が広がる、ごく普通の風景。
それが、診療所の建物と学校の建物の一部を残して、消えている。
なんということだろう。
さらに先の南三陸町にも足を運んだ。
山の中は普通の風景なのだが、ところどころに仮設住宅が見え、はっとする。
そして、町には大きな建物以外は何もなかった。
4階建ての病院は、3階までの窓ガラスがすべて無くなっている。
海近くの階建てのマンションの屋根の上には、壊れた家が乗っている。
一角には壊れた車が保管してある場所があった。
どれも原型をとどめないくらい壊れている。
そんな中にも、「クリスマスケーキ予約受付中」というのぼりを出している小さな店があった。
食堂もあった。
食堂は休みだったけれど、道路わきに大型バスを改造した移動式のラーメン屋が出ていたので、そこに入った。
バスの座席で食べるラーメン。
私たちのほかには、仕事で来ているらしい制服のジャンパー姿のふたり。
バスの窓の向こうに見えるのは、激しく降る雨の中、家の土台だけが残る風景。
不思議な現実。



元来た道を帰るとき、「またどうぞ南三陸町へ」という看板があった。
立派な看板だ。
でも、ここでも、その町は無い。
今年のあの3月の地震のとき、私の住んでいるところでも震度5強のゆれで、大変なことになった。
でも、あのとき、ここではたくさんの町が消えてしまったのだ。
たくさんの命も消えてしまったのだ。
私の3.11の地震と、報道で見ていた津波のことが、初めてつながった。
あの揺れが、こんなことをおこしていたのだ。
地続きのところで起こっていたことを、私は何も知らずにいたのだ、とあらためて思う。