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米軍機墜落事故

先日、小学生のころに読んだ本のことを思いだし、図書館で借りてきてあらためて読んだ。

パパ ママ バイバイ』 早乙女勝元 著

これは、昭和52年9月27日、厚木飛行場を飛び立って空母ミッドウェイに戻るファントム戦術偵察機が離陸直後にエンジンから火を噴くトラブルを起こし、パイロットは事前に脱出したものの、機体はそのまま横浜市の宅地造成中の住宅街に墜落。
近くの家に住む人々が大やけどを負い、3歳と1歳の小さな男の子2人が翌未明に亡くなった。
子どもたちのお母さんもひどいやけどで違う病院に入院していたけれど、ご家族はお子さんたちが亡くなったことをすぐには伝えることが出来ず、お母さんが知らされたのは事故から1年以上たってからだった、という内容だ。

この墜落現場が以前住んでいた川崎の家から近いところであるということは、引越したころに何かで知ったのだが、実際どこなのかまでそのときは深く考えてもみなかった。
でも、今回気になって調べて見ると、私がちょこちょこ出かけていた江田駅の近く。
今年の春も、すぐ近くの公園の土手でつくし採りをしていた。

何かがあったことを知っていたのに、ちゃんと知らずに近くを通り過ぎていたことがちょっとショックだった。

どうして、ちゃんと考えなかったのだろう、と。



関連の本も何冊か読んだが、このお母さんも事故から4年4カ月後に亡くなったそうだ。
全身の火傷の治療は、麻酔もほとんど使えず想像を絶する激痛だったそうだ。
そんなつらい治療や火傷による痛みに、また喉に穴をあけて呼吸器をつけたために、その痛みや思いを訴える声まで失ったことに、自分には何の過失も無いのに長い耐えなくてはならず、だからと言って元通りの体に戻れるわけでもなかったお母さんの気持ちを思うと、とてもつらい。
それよりも何よりも、子どもたちまで奪われてしまったつらさはいかほどだったろうか。

今であれば、PTSDなどという言葉も一般的になり、専門のカウンセリングなど心を支える対応ももっとできただろうけれど、30年前の当時では病院もそのような対応は行わなかったような印象を、資料を読んでいく中では受けた。

当時の詳しい状況は分からないが、国の対応への不満などいろいろなことが募り、また、病院で受けた心理療法を取り入れた歩くためのきついリハビリが発端になって、その不満が表に出てきて心が荒れていってしまった彼女を、病院側が受け止めらなかったようだ。

最後は呼吸器をつけた状態の彼女をほとんど強制的に退院させ、精神科のみの診療所にうつし、そこで呼吸用の管を抜いた二日後に心因性の呼吸困難で亡くなっている。
ご本人もご家族も、苦しいからまた管を入れて下さいと頼んだのに医師からそれは拒否されたそうだ。


国と国との「防衛」上の都合の中で起こった事故で、いわれの無い苦しみを受けた一般の国民が何故このような悲しい人生を送り、若くして終えなくてはならなかったのだろうか。

このお母さんも、子どもたちも、のこされた家族の方たちも、ほかの怪我をされた方たちも、このジェット機さえ落ちてこなかったら普通の幸せな人生を送ることが出来たのに。



思えば川崎の住宅街の上も、よく戦闘機が轟音を響かせて飛んでいた。
あの飛行機の一機が、落ちたのだ。

戦後になってから、何十件もの米軍機の墜落事故が起こっている。
そしてたくさんの家が失われ、本当に多くの方が亡くなったり傷を負わされている。


神奈川で言えば、横須賀に航空母艦がいて、厚木の基地と密接な関係があって、そして私たちの頭の上を飛んでいる。
空母というのは、停泊中は艦載機を陸の基地に移動させてしまうそうだ。
風上に向かって航行する時の向かい風を利用してジェット機を離陸させるから。
なお、米軍が管轄する横田空域は、いま住んでいる栃木までも広がっている。


沖縄でのヘリコプター墜落も記憶に新しい。



こんな空の下に、私たちは暮らしているのだ。






<参考図書>

『パパ ママ バイバイ』 早乙女勝元  日本図書センター
『あふれる愛に』 土志田和枝  新声社
『「あふれる愛を継いで」米軍ジェット機が娘と孫を奪った』 土志田勇  七つ森書館
『米軍機墜落事故』 河口栄二  朝日新聞社
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by TS-KABAKICHI | 2010-12-14 10:16 | その他