渡良瀬遊水地の中にある、谷中村の雷電神社跡に行ってきました。
雨が続くと、ここまで行く道が水没するために、これまでなかなか行けずにいました。
去年は、彼岸花が咲いているのを遠くから眺めただけだったので、今年こそは、と台風のあとの水が引いたのを見計らって、出かけてきました。
遊水地入り口でレンタサイクルを借りて、芝生の広場の端から雷電神社跡に続く細い道に入ります。
両側には背の高い葦が生い茂っています。
道の先にあった、雷電神社あと。
田中正造もよく立ち寄ったところです。
谷中村は水害が多いところだったので、住居や建物は水塚(みづか)と呼ばれる小高くなった塚の上に立てられていたそうです。見渡すと、あちこちに、木が生い茂った塚が見られます。
屋敷林だったのでしょうね。
彼岸花が咲き始めていました。
すぐ向かいにある延命院のあとの説明看板。
谷中村が廃村になったときに、建物はすべて取り壊され、共同墓地だけが残されました。
今も、新しい花が手向けられていました。
江戸時代からここにある、古いお墓たち。
年に一度の一面の彼岸花にいろどられています。
少し離れたところには、庚申塔もありました。
萬延元年の年号が読み取れます。
調べてみると、1860年。桜田門外の変があった年です。
放射線量を測ると、谷中村あとも、おおよそ0.10~0.11マイクロシーベルト/時あります。
これはこのあたりの自然放射線量の倍くらい。
明治政府が守り通した重要産業であった足尾銅山の鉱毒被害に苦しんだ末、今度は鉱毒対策のために廃村にさせられ、人が住むことがゆるされなくなった村に、今また、戦後の産業が産み出した猛毒が、音も無く静かに降り、土地を汚しました。
命がけで谷中村を守ろうとした村人たちや、田中正造は、どう思うだろう。
あとに続くものたちが、何も学ばなかったことに落胆し、いまだに政府は産業つまり利益を守るものであって、ひとりひとりの国民の命を守るものではないことに、怒るのではないだろうか。
私自信も何も学ばず、考えずにきたことを、申し訳ないと思いました。
去年、足尾銅山について本をいろいろ読んだけど、昔のこととしか思わなかった。
そんなことをずっと考えながら、谷中村のあと、今は谷中湖と名前を変えた場所をめぐってきました。
延命院あとの穏やかな顔の石仏。
ここで、ずっと谷中村の豊かな時代も、鉱毒被害にあった暗い時代も、村が破壊されていく様子も、その後のこともすべて眺めてきたのでしょう。
そして、今起こっていることも、この後のこともずっと。
私が過去に書いた、谷中村・足尾銅山に関する記事です。
2010.06.14「渡良瀬遊水池」
2010.09.06「足尾銅山」
2010.09.30「谷中村」
2011.04.05「足尾銅山と原発と」