明治大学生田キャンパスのある場所にかつてあった、陸軍登戸研究所の定例見学会に行ってきました。
毎月第4土曜日に、旧陸軍登戸研究所の保存を求める川崎市民の会の方々によって開かれているものです。
長い年月を経て、まだ当時の建物が、木造2棟とコンクリート1棟、弾薬庫、消火栓などが残されています。
しかし、木造建築のうちの1棟は6月に取り壊されるため、今回が最後の見学会とのことを新聞で知り、ぜひ見ておきたいと思い申し込みました。
このあたりはかつて陸軍の施設がたくさんあり、色々なところに
痕跡があるのは、少し知っていました。
うちの近くの幹線道路である尻手黒川道路が軍用道路として整備されたものだったりなど。
でも、この登戸研究所のことは、私は今回始めて知りました。
説明を聞くと、太平洋戦争時には、かなり重要な位置を占めていた施設だったようですが、毒物・細菌などの生物化学兵器の研究・開発、スパイ戦に使用する武器・器具などの研究・製造、偽札の製造などを行っていたため、ほとんど公的な記録が残されなかったそうです。
終戦後は1ヶ月くらい煙が立ちのぼっていたと、近くの人の証言があるそうで、証拠隠滅のために燃やすことができるものはすべて焼却したようです。
偽札作りの印刷機は、どこかの海に沈められたと言われているそうです。

動物慰霊碑
昭和18年に建てられたもの。
動物実験も行われていたようですが、それほど多くはなく、時期が戦争後半であることもあって、この研究所が中国で関わった兵器の人体実験の犠牲者のためのものではないかとの推測もされているそうです。
ただ地元の戦争遺跡について知りたいなあと、なんとなく参加した私は、ここで、いきなり戦争の一番暗い部分を見てしまったようで、血の気が引く思いでした。
でも、今はごくごく普通の大学のキャンパスである場所にいると、かつては戦争の場であったことが、なんだか不思議でうまくつながらない気分でした。
そんなところに、近くにいた方が「私はここで16歳から3年間働いていたので、ここであったことは色々知っているんです。」と話しかけてきてくださいました。
子どもの相手があったりで、ゆっくり伺うことができなかったのですが、実際に働いていらっしゃった方がいてそのお話を聞くことで、あらためて陸軍の研究所があったことが事実なのだと、さっきよりずっと実感できたのでした。
このあと、陸軍の星の印の入った消火栓のところで、ここでかつて実際に風船爆弾の製造に関わっていた方からも話を聞きました。
その方がこのようなことをおっしゃいました。
最初は風船爆弾なんて、竹やりみたいに無謀なものだと思っていたのだけれど、これは実際にはアメリカにずいぶん打撃を与えたんですよ。
9000個飛ばして、記録されているのはもっと少ないけれど、実際には1000個くらいはアメリカに届いたそうです。
偏西風のことを、日本はちゃんと知っていた。そして、それを使ってアメリカ本土まで爆弾が行くということは、本土に攻撃を受けたことが無いアメリカにとっては、大きな脅威だった。それを防ぐために、ずいぶん労力もさいたそうですよ。
この方の言葉には、風船爆弾に対する誇りがありました。
これは、戦争を否定する言葉を聞いて育ってきた私には、とても意外でした。
戦争体験者である私の両親も、戦争に対しては、母は、ものが無くて大変だった、無謀な戦争だったという話が主。陸軍に召集され満州にいた父は、戦争についての記憶は悲惨すぎたようで、軍隊生活の中での楽しかったエピソードしか話しませんでした。
でも、戦時中、敵国の攻撃をうけダメージばかりを受けていた日本で、相手に一矢報いることができた、それに関わっていたというのは誇らしいことであったのですよね。
そういう空気があったことを、その方の話を聞いて、あらためて感じました。
戦争って、お互い敵を攻撃する戦いなのですよね…。
今までその根本に触れたことがなかったかもしれません。
父は、知りすぎていたゆえに、子どもには伝えなかったのでしょうし。
その後見に行ったのは、もうすぐ取り壊される26号棟という建物。
ここは、同じく現存する隣の建物で印刷された中国の偽札の倉庫として使われていた建物。
この研究所の中でも、板塀に囲まれて本当に限られた人しか入ることができない、一番秘密にされていた場所だったとか。
なお、ここで作られた偽札は、中国のインフレをもくろんでのものであり、また物資調達などにも使われたそうです。
その偽札の総量は、積み上げると高さ90キロ以上にもなる分量だったそうです
だから、ここはあの戦争の中では非常に重要な位置を占めるところであったのですと、案内してくださったこの施設について研究してらっしゃる大学の先生が説明してくださいました。
そんな重要なところだとまで考えて参加いなかった私は、またしてもびっくりです。
26号棟は内部も見学できました。この扉は戦争当時からのもの。
内部は、床が抜け落ちているところもあったりと、かなり老朽化し部材も痛んでいます。

親は説明をふむふむと聞き、興味津々なのですが、子どもたちはダンゴムシのほうがお好きなようです…。
でも、それでいいのかな。
今回壊されてしまう建物、旧陸軍登戸研究所の保存を求める市民の会では、保存活動をしてきたようですが、建物の状況も悪くて取り壊しが決定したとのこと。
市民活動だけでは限りがあり、大学側も新校舎の建設地が必要だったりで、保存には自治体の力が無くては…とのことでした。
取り壊しはとても残念です。
戦争について実際に知っていて話をできる人たちは高齢化して、だんだん少なくなってしまいますが、建物は保存ができるもの。この先ずっと戦争について知るための貴重な財産となり得ると思うのです。
そういった遺産を残そうという、気持ちがお役所には無いのでしょうね…。
戦争が撃ち合いだけではなく、色々な恐ろしいことが行われていたものであることを知らせる、とても貴重な遺産であると思うのですが、そのような忌まわしい記憶を封じ込めてしまいたいのかなあ、とも思ったり。
でも、今こうやって私が見て、戦争にまつわるこのような研究施設があることを知ることができたのも、研究所の跡地が大学という場に使われたからであって、今まで建物を保存できたというのも稀有なことだったのでしょうね。
保存活動を続け、ボランティアで見学会を開催してくださっている方たちにも感謝です。
学食前の消火栓。
新築の際に、設計者が残したそうです。